※この記事は「50年前のアメリカ放浪記」シリーズの一編です。
1. 京都でのバイト生活
僕は京都の私立高校を卒業し、大学の電気工学科に進学した。 入学後、前年夏に夏期講座を受けた塾から勧誘のアルバイトの募集があり、面白そうだと感じて始めてみた。家庭教師も数軒していたが、当時の時間給は330円だった当時、塾の勧誘の仕事は一人入塾させれば3500円もらえる。
電話での勧誘→車で訪問→入学金の受領(7000円)を毎日繰り返し、
1か月に10万円、20万円のバイト料が入った。
当時の大学卒の初任給が13万円くらいだった頃の話だ。
サーフィンを始めたり、18歳なのに京都の繁華街のバーへ行ったり、八坂神社の近くのジャンボっていうディスコにもよく通った。急にお金持ちになっちゃった。笑
広島に建設業をやってるおじさんがいて、法事の時に人手が足りないから夏休み中に住み込みで来ないか?って誘われてて面白そうと思って、行った。
現場は広島の山の中に5階建てのショッピングセンターを作る仕事だった。
おじさんの家は遠いので現場で住み込み。8人部屋でクーラーもなく、せんべい布団で暑かった。
重い荷物を持って、足場を5階ビルの屋上まで登って運ぶ仕事。グラグラする足場の5階からビルの屋上に一歩足を掛けるとき、股の下に何十m下の地面が見える。
おち〇ち〇がチジこまった。笑
飯場の連中は気が荒い人が多かった。毎日こぶしで殴られてるやつもいた。
僕はおじさんの人力で平和だった。
しばらくするとみんなと打ち解けてきた。 マムシを取ってきて外で焼いて「にいちゃん、これ食べるか?精力付くで!」って言われて食べたけど、臭いがきつくって二度と食べなかった。
日曜日はおじさんの息子がスポーツカーで広島を案内してくれた。楽しかった。
1か月くらいで帰るとき25万円おじさんから渡された。「もらいすぎです!」と断ったが、
結局もらった。有難い!!!
また京都で家庭教師、塾の勧誘をした。
結構遊んだけど、1年生の終わりには70万円ほど残った。
2. 初めてのハワイ 〜自由を感じた日々〜
そのお金で、一人でハワイへ行った。 航空券は大観航空、韓国で4時間トランジット待ちの安いチケット。

階段を上るとギシギシ音がするような、京都の怪しげな旅行会社で手配した。
ホノルルに到着し、インフォメーションでYMCAへの行き方を聞き、バスで向かった。 後部座席では筋肉隆々の男たちがイチャイチャしていて、こちらをニヤニヤ見ている。ホモが多い。アメリカはこういう国なのだと実感した。
数日間YMCAに泊まったが、シャワーで妙な視線を感じ、町で知り合った人に「YMCAはホモが多い」と教えられて、すぐに近くのモーテルに移動した。
自転車を借りてダイヤモンドヘッドまで走った。今と違って、裏側まで回れたし、中にも入れた。風はさわやかだった。ダイヤモンドヘッドの中には錆びた鉄のカートだけ。草もぼうぼうで殺風景だった。

アラモアナ近くの海で背泳ぎをしながら見上げた空の青さ。 “自由”を感じた瞬間だった。
帰りにお土産で80㎝の大きなハワイの木彫りの面を買って担いで帰国した。

それと帰国日の空港の免税店で、親父にオールドパーを買った。7ドルくらいだった。$1=¥360だから迷った。
3. 再び働き、アメリカ本土へ
帰国後、また塾の勧誘と家庭教師に明け暮れ、なんとか学校も退学にはならない程度に出席していた。
塾の勧誘の仕事の忙しい時期は2月から4月と夏期講習の勧誘で6月7月、冬季講習で11月12月だった。
暇な時期は白タクをした。塾の車で三千院に行って、京都駅行きのバスに並んでる2,3人のグループに、「京都駅まで一人500円で行きますよー」って声掛けして塾の車で京都駅や四条まで送っていく。
日曜日などはバス停には長蛇の列、すぐお客は見つかった。
2000円,3000円稼いだらそれを握って河原町あたりで友達と飲み食いした。
1年間、塾と家庭教師で稼いで貯めた、70万円を握りしめ、今度はアメリカ本土へ行く決心をした。 周囲には「そんなに金を使って何の価値があるのか」と言われたが、ハワイで感じた”風”の説明はできなかった。
4. サンフランシスコから始まる冒険
ハワイのときと同じ旅行会社で、サンフランシスコ行きのチケットを購入。 往復27万円、羽田発。
京都の南インターで友人たちに見送られ、段ボールの紙に”東京”と書いてヒッチハイク。 トラックがすぐに止まってくれた。サービスエリアでカレーライスもご馳走になった。
サンフランシスコへはまた韓国経由。機内の毛布とナイフ・フォークをちゃっかりバックパックに詰めた。
現地到着後、まずYMCAへ。そして数日で、California St.とPowell St.近くのアパートへ引っ越し。1階の食堂で朝晩の食事付き、そこで英語を教えてくれる老夫婦とも出会った。
macy’sっていうデパートの最上階の売店でコンサートチケットを買おうと英語で話したが、
「Please speak in English」って言われた。トホホ~
アメリカ英語のイントネーションには最初苦労したが、1か月もするとラジオニュースも少し聞き取れるようになった。
サンフランシスコではUNION SQUAREによくたむろしていた。


アメリカ各地からのヒッピーが多くって、すぐ打ち解けた。



ケーブルカーに乗ってフィッシャマンズワーフで紙カップに入ったカニを食べた。美味しかった!
ポスター屋さんに行ってポスターを見た。気に入ったポスターがあったけど、
$27(¥9720)、高くって無理―!
いろんな物が安いからよくチャイナタウンにも行った。
チャイナタウンの中に1軒だけ、日本料理のお店があって、ショーウィンドウに
かつ丼があった。うまそうと思ったけど、値段が$10(¥3600)だったので、諦めた。
5万円で車を購入し、サンフランシスコ周辺を走り回った。

Golden Gate Bridgeを渡ってソーサリートに行った。
めちゃくちゃ奇麗な眺めに時間を忘れた。
チャイナタウンの入り口にファーストフード店のような中華のお店があって皿洗いの募集をしていた。
workingビザ持ってないけど、いいかって聞いたら、大丈夫ってことで
週に何日か夕方3時間だけバイトした。時間給は$3。 な、なんと日本の3倍!
主任の中国人のWangさんにはよく賄いを出してもらって親切にしてもらった。
白タクもやった。
UNION SQUAREあたりにいると当時、日本から農協などの団体さんがよく来ていた。
彼らは必ずフリーな日があって、2,3人で歩いているおじさんを見つけては、
「一日、$50でサンフランシスコを案内しますよー」って声かけた。
彼らも僕が日本人ということもあって安心するのか、翌日に彼らを乗せて、
Frower Rd.やFisherman’s walfなどに連れて行った。
GoldenGateBridgeを渡るときは別料金と決めていたが、だいたいのおじさんたちは
OKってことでソーサリートやバークレイに連れて行った。
昼ご飯や晩御飯までご馳走してくれたこともあった。
たまーに、Hなおじさん達がいて、晩御飯の後に売春婦たちが立ってる通りに連れて行って「あの子」とかリクエストがあると僕が行って交渉して、ホテルまで一緒に連れて行った。おじさんたちはチップを$20,時には$50くれた。Lucky!!!
5.音楽と自由の夜
サンフランシスコでは、バークレーの小さなバーでJerry Garciaのライブあると知って出かけた。
コアな連中がいっぱいいた。夜8時から明け方まで、マリファナが回り、会場全体が踊り、
端でmake loveしてるカップル達もいる混沌とした夜。

そのころの日本ではSOULTRAINっていうテレビ番組くらいしか、外国の音楽を知ることはなかった。真夜中の番組だったから観てて、よくおふくろに怒られた。
Jeferson Starshipのコンサートでは、初めて観たにも関わらず、頭がぶっ飛んだ。 踊るヒッピーたち、自由な空気。


日本では絶対に体験できなかった世界。
この時、強く思った。
「世界を駆けるような仕事がしたい!」
6.車で、大陸横断
車でアメリカを回ってみようと思った。
地図を買ってロサンゼルス、ヒューストン、ニューオーリンズへと南下。


ロサンゼルスでエアロスミスのコンサートに行った。

バカでかい球場でのコンサートにびっくり!!!
そのころ、日本ではそんな大きなコンサートはまだなかった。
会場で日本でも有名なロックバンドの日本人ギタリストたちと意気投合。
ハリウッドまで彼らを車に乗せて食事に行った。
ディズニーランドにも行った。
当時、日本では遊園地は子供が行く場所っていうイメージがあったけど、
こっちでは全く違った。
大人たちもいっぱいでめちゃくちゃ楽しんでた。
僕もジェットコースターなどに乗って楽しかったー!!
ロスを離れ、ヒューストンに向かう。

景色の変わらない道をひたすら走り、眠くなったら路肩に止めて、後部座席で毛布に包まって眠る日々。

ヒューストン近くでは巨大なサボテンに驚き、ニューオーリンズではジャズの音色に包まれた夕暮れを歩いた。

途中では何人もヒッチハイクしてる人たちを乗せた。
ずいぶん年齢がいってる人もいた。
ニューオーリンズで食べた、アンチョビのピザの味が忘れられない。
セントルイスを経由し、夕暮れの荒野を越えてソルトレイクシティーを目指す。
サクラメントにたどり着いたとき、車が完全に動かなくなった。
購入時の履歴から廃車料金の請求を逃れるため、ナンバープレートを外して近くの川に放り込んだ。
ヒッチハイクでサンフランシスコへ戻った。
いろいろな思い出をくれたアメリカ旅行も、いよいよ最終日。

まず向かったのは、フィッシャーマンズ・ワーフ。以前に見た、ポスターが忘れられなくて、最終日に買った。
ダウンタウンに戻り、懐かしいチャイナタウンへ。
皿洗いのバイトでお世話になった王さんに挨拶したら、なんと餞別に20ドルもいただいた。感謝の気持ちでいっぱい。
その後、ずっと恋しかった**日本の味「カツ丼」**を求めて日本レストランへ。
関西風より少し濃いめの味付けだったけど、それがまた美味しくて、心もお腹も大満足!
最後にユニオンスクエアの友人たちに別れを告げ、日本への帰路についた。
この旅は終わったけれど、冒険はまだまだ続く。
次回は、翌年のアメリカ再訪、そして“精神世界”を求めたインドの旅へ。
どうぞお楽しみに!
エピローグ:
若い人たちへ伝えたいこと
この旅は50年前のこと。でも、あのとき感じた「自由」と「挑戦する楽しさ」は、今でもずっと心の中にある。
誰かに「そんなことして何の意味があるの?」って言われてもいい。
自分の心が動いたら、まずやってみたらいいと思う。
思い切って外に出たからこそ、見える世界がある。
世界には、想像もしなかった景色や人や音楽があって、それは人生をまるごと変えてくれる力があるんだ。
僕が伝えたかったのは、“自由”とは場所ではなく心のあり方なんだ、ということ。若い人たちには恐れずに、自分の道を進んでほしいーーそれが、50年前の旅で得た最大の学びです。
今の若い人たちが、もっともっと自由に、自分らしく挑戦できる世の中になりますように。
そして、あなたの旅がいつか始まることを願っています。
あなたにとっての“自由”とは何ですか?
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