2度目のアメリカ

※この記事は「50年前のアメリカ放浪記」シリーズの第2編です。

7. 二度目のアメリカ旅行

日本に戻ってからは、また家庭教師と塾の勧誘のバイトに明け暮れる毎日だった。

サーフィンに出かけたり、京都の四条・三条あたりの飲み屋で友人たちとよく飲んだ。

たまに大阪のスポーツタカハシまで足を伸ばし、帰りに難波でも飲んでいた。

四条大宮に友達の親が始めた、サーフショップができたので、よくたむろしていた。

祇園にカルチェラタンっていう新しいディスコができた。

シャレた作りだった。ほぼ毎週末、友人達とカルチェラタンに行ってそれから夜、車で名古屋あたりまでサーフィンに行ってた。

大阪で開催された、EAGLESやEARTH WIND & FIREなどのコンサートにもよく足を運んだ。楽しかった!

去年、アメリカへ行ったときにバーなどに入場時、年齢が19歳で入場拒否された経験もあった。

そこで、タイプライターでID CARDを偽造して持って行った。

自作した、ID CARD  今なら笑ってしまう。

これでどこへでも入場可能になるか、偽造がばれて強制送還になるか、どっちか?

次の夏休み前には、80万円を貯めた。

去年と同じようにサンフランシスコ行きのチケットを購入し、京都インターから東京へはヒッチハイクで向かった。

東京では、前回ロサンゼルスのコンサートで知り合った、日本の有名ロックバンドのギタリストのアパートに2〜3日泊めてもらった。

渋谷近くにあるその部屋から、よく一緒にご飯を食べに行ったり、遊びに連れて行ってもらった。

当時の渋谷は今ほどビルも多くなく、閑散としたイメージがあった。

彼の彼女はモデルで、まさにロックな日々だった。

8.2回目のサンフランシスコ

サンフランシスコに到着すると、ユニオンスクエアには前年に見かけたヒッピーたちがまだいて、すぐに打ち解けた。

以前皿洗いでお世話になっていたチャイナタウンの中華料理店を訪ねると、Wangさんはすでに亡くなっていた。

夜、黒人街でツケ払いの集金に行った帰りに襲われ、肝臓を破裂させられたという話だった。

あまりのショックに、言葉を失った。

黒人街は昼間でも怖かった。歩道を埋め尽くす大柄な黒人たちに通れなくなることもあった。

夜など到底近づける場所ではなかった。

ユニオンスクエアでうろうろしていたら、ある日、きちんとした身なりのアメリカ人男性に声をかけられた。

「今夜、パーティーがあるんだけど、来ないか?」

ラッキー!と喜び、彼に案内されて真っ白で綺麗な部屋に通された。

ポテトチップスとビールをもらい、ベトナム戦争時代の写真などが飾られた部屋でしばらく待っていたが、友人は一向に現れない。

不思議に思っていると、突然その男性が隣に座り、局部を握ってきた。

「僕はそうじゃない」と告げ、すぐに部屋を出た。

あとで考えれば、そういう意味の「パーティー」だったのだろう。

いや、パーティーなど最初からなかったのかもしれない。

ヒッピー仲間の中にも、ベトナム戦争に行きたくないから友人に頼んでバットで膝を折ってもらった、戦地でドラッグ中毒になった…そんな話をよく聞いた。

戦争が人々の心を蝕んでいたのを感じた。

9.南へ

数日後、グレイハウンドバスでロサンゼルスへ。

レッド・ツェッペリンのコンサートを観に行った。

大きな球場で、夕暮れ時のステージで咆哮するツェッペリンは圧巻だった。

DOOBIE BROTHERSのコンサートにも行った。アメリカの広大な景色にぴったりのサウンド。

doobiebrothers

大好き!!!

翌日、「SOUTH」と書いた段ボールを掲げ、メキシコを目指してヒッチハイク。

数人に乗せてもらい、ある2人組の男の家に泊めてもらえることに。ラッキー!…と思ったのも束の間。

アパートに入ると、妙に仲のいい男ばかりが5人。

空気がおかしいと感じた。

シャワーを借りて浴室に入ると、幸い窓があった。

シャワーを出しっぱなしにしてまずバックパックを外に投げ、自分も続いて飛び出した。

そのままバックパックを担いで走った。

本当に危なかったのかはわからない。でも、自分の感覚を信じて走った。

ロサンゼルスとサンディエゴの中間でヒッチハイクしていると、ドイツ人のマーク(28歳)が車を止めてくれた。

学生時代にサンディエゴの大学に通っていて、昔の友人たちに会いに来たという。

彼の友人宅に着くと、大きな一軒家に6〜7人がシェアハウスしていた。

ソファなら泊まっていいよと快く迎えてくれた。今度こそ、本当にLucky!

SANDIEGOのシェアハウスの愉快な人たち

マークは親切で、サンディエゴ動物園や映画『スター・ウォーズ』にも連れて行ってくれた(日本未公開だった)。

字幕なしでも半分くらい理解できたけど、めちゃくちゃ面白かった。

庭にはマリファナが数本植えられていたが、「自分たちで楽しむだけだよ」とのこと。

シェアハウスの女性が勤めてる、海辺のしゃれたレストランにも連れて行ってくれた。

彼女は「Best ASS Staff」として表彰されていた。なるほど…確かに綺麗なおしりだった。

マークとサンディエゴ大学の教授とも奇麗なレストランに行き、いろんな話を聞かせてもらった。

マーク 今でも感謝してるよ!

2週間ほど滞在し、最後にマークとFreeway入り口でハグして別れた。ありがとう、マーク!

10.カリフォルニア州の最南端ビーチ

再び「SOUTH」と書いた段ボールを掲げ、次の日にはカリフォルニア州最南端のインペリアル・ビーチへ。

あと少しでメキシコ国境というところ。

モーテルにチェックインすると、なんと壁一面に富士山の絵が描かれていた。

思わず呆然と見入ってしまった。

懐かしい日本、望郷の気持ちがこみ上げてきて、「帰ろう」と思った。

サンディエゴ空港へはバスとヒッチハイクで向かい、そこから飛行機でサンフランシスコへ戻った。

ユニオンスクエアには変わらずヒッピー仲間が集っていた。そこだけはいつも平和だった。

11.自由と混沌の交差点で

帰りの飛行機までは残り1か月。お金も底をついてきた。

そんな話をすると、ヒッピーの仲間が黒人街の教会で無料で食事ができると教えてくれた。

翌日訪れると、ヒッピーのような若者や多様な人種の人々、子どもたちもいた。

食事はあまり美味しくなかったが、量はたっぷり。

ロック調の賛美歌に合わせてバンドが演奏していた。

その教会には何度もお世話になった。

サンディエゴの洗練されたレストランでの食事、

サンフランシスコの教会での無料の食事——

アメリカの光と影が交錯する風景だった。

ヒッピー仲間の中にはマリファナどころかドラッグに溺れる者もいた。

言葉がつながらず、会話にならない人もいた。

「生きる」ってどういうことなんだろう。考えさせられた。

当時のアメリカは、日本の何年も先を行っているように思えた。

日本は、そんなアメリカに向かって突き進んでいたようにも見えた。

混沌とした気持ちのまま帰国。

大学生活と塾の仕事に戻った。

ある日、本屋でインド人哲学者バグワン・シュリ・ラジニーシの本に出会った。

アメリカのヒッピーたちからその名を聞いたこともあった。

「精神世界の旅 インド」

雑誌『宝島』に載っていたその広告を見て、ビビッと来た。

これだ、と思った。

次の旅先は——インドだった。

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